訃報

 

元ビッグシャークの平林長七氏が2012年1月25日に胃がんのため亡くなられました、72歳でした。

2007年頃に胃がんの手術をされ一旦は金岡球場に野球観戦に来られるくらい回復されましたが、その後がんの転移などで入退院を余儀なくされました。
昨年は歩くのも困難になり車椅子で生活をされておられましたが、ご自身と息子さんで創設された野球チームの天王寺リーグの大会に監督としてベンチ入りをされるなど、最後まで野球一筋の人生を送られたそうです。

 

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最後のシーズンとなった2003年3月24日の対エスパーニャフセ戦(東大阪市・金岡球場)

 

平林長七氏は1998年の第一回大会にロビンズの主戦投手として2勝(4敗)の成績を収められました。
その年限りでロビンズが解散したこともあり、1999年度はどのチームにも所属せず出場機会はなし、しかし翌2000年に藤原氏(現当リーグ会長)がビッグシャークを旗揚げしたことに伴い、右のエースとして入団、引退する2003年までの4年間で公式戦オープン戦などあわせて約50試合以上に登板されました。

引退される年の2003年2月17日(対KFCフェニックス戦)では、いまだ(2011年現在)に破られることのない当リーグの最年長勝利投手記録を樹立されました(63歳)

マウンド上では味方のミスを決して責めずにご自身の投球を反省する姿が印象的で、晩年は現在チームのエースとして活躍する元吉投手にマウンドを譲りご自身のピッチングに対するこだわりなどを伝授されたと聞きます。
その元吉投手は氏の訃報に際し
”2年ほど前にお会いした時は元気そうだったので、またマウンドに立っていただきたかったです、寂しい限りです。”
と語った。

また、ピッチングだけでなくバッティングも年齢を感じさせない豪快なスイングで常にチームの主軸を担っておられました。
いつも木製のバットを手に、晩年の打席でもベンチまで音が聞こえるくらいの鋭いスイングが印象的で、還暦をすぎても外野の頭上を越す打球は健在でした。

土日にはご子息が選手として活躍する草野球チームの監督をつとめられ、その連盟ではA級にまで上りつめられました。

 

 

平林長七投手の通算成績(1998年〜2003年※1999年を除く)

「投手成績」
1998年(ロビンズ・背番号18)2勝4敗
2000年〜2003年(ビッグシャーク・背番号18)3勝26敗
合計(5年間)・5勝30敗

「打撃成績」
1998年(ロビンズ)32打席-27打数-4安打 打率.148
2000年(以下ビッグシャーク)29打席-24打数-1安打 打率.042
2001年28打席-24打数-7安打 打率.292
2002年21打席-19打数-2安打 打率.105
2003年16打席-12打数-1安打 打率.083
合計(5年間)・126打席-106打数-15安打 打率.142 出塁率.278
( 投手成績、打撃成績はすべて予選リーグ戦でのもの)

 

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2002年3月18日の対KFCフェニックス戦(吉原球場)で力投する在りし日の平林投手

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上と同じく2002年3月18日の対KFCフェニックス戦(吉原球場)での打席

 

最後の公式戦(予選リーグ)登板は2003年6月30日の対レッドソックス戦。 途中降板し2−10で敗れる。

この後もリーグ主催の大会やオープン戦でマウンドに上がった。
この年の7月14日にはスポニチ杯トーナメント大会の1回戦で敗戦投手になるものの、相手は高校野球経験者を揃えた関西大の現役大学生のチーム。その孫ほど年の離れたチーム相手に0−1という力投をみせた。

同年9月1日には順位決定戦リーグにも登板、同じく10月20日のオープン戦(対タイヨーフレンズ)でも負けはしたが1−2の力投をみせた。

そして迎えた12月1日の少し暖かい冬のオープン戦(堺市・大泉緑地野球場)で当リーグ最後のマウンドに立たれました。 相手は大阪マンデーベースボールリーグには加盟していない”ストームス” 。
このチームの当時の中心選手は現在パルプンテいずみで活躍中の手島選手(2006、2007ホームラン王)という強敵。
ところが試合結果はなんと5−3でビッグシャークが勝利するという波乱(失礼な表現だとは思うがこの年のビッグシャークはリーグ戦8チーム中7位の成績だった)
そして
勝ち投手はもちろん平林氏でした。 これが我々の大阪マンデーベースボールリーグで知る最後の登板となりました。幸せなことに氏の見事な勝利を私(筆者)は現地で観戦どころか助っ人でサードを守らせていただいておりました。

 

19950711対タカラブネパワーズ 20010604対レッドソックス 20030224対大阪バンブス

上の画像3点・・・平林投手現役時の記録表(クリックで拡大)

左・1995年当リーグ発足前のリーグでのもの、キャプテンとして甲子園出場経験者もいるという相手チームに終盤追いつき引き分けに持ち込む(3番投手で先発完投)

中・2001年ビッグシャークに移籍2年目のシーズン、レッドソックス相手に3回まで投げチームの勝利に貢献する(9番投手で出場、勝敗はつかず)

右・最後の年2003年、その年優勝することになる大阪バンブスのベストメンバー相手に力投、リリーフの小山と還暦越えた投手二人で強豪バンブスを苦しめた
(7番投手で出場し1安打放つ)

中村氏より

平林氏とはご近所でもあり、数十年来の付き合いである中村氏(ロビンズ-ビッグシャークの監督を歴任)が氏を偲ぶエピソードをお話し下さいました。

「昨年、平林さんが歩行困難になられたおりに「一度、ビッグシャークの応援に行きたいので連れて行ってくれ」とおっしゃられました。
遠い所は無理なので ビッグが金岡で午前中に試合することが有れば一緒に行きたいと思っておりましたが、ちょうど良い試合日程が無く残念がっていました。
平林さんとは大阪マンデーベースボールリーグの前身となる草野球リ−グからの付き合いです。
当時、長野県小谷(おたり)リーグへの交流遠征というのが恒例でありましたが、そこに◎△○□×同伴で参加されるなどそれはそれは豪快な方でした。
よく飲みに連れられて行った思い出とともに、いろんなアリバイ工作に私をダシに使われました、なので平林さんの奥様と顔を合わさないようにムダに遠回りして帰った事もしばしば。今ではどれもこれもが懐かしい思い出です。 」

 

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2007年金岡にて
平林氏(右)と元ロビンズ、ビッグシャークの監督を務められた中村氏(左)
この時すでに胃がんの手術をされた後でした。
東大阪市・金岡球場にて  2007年7月2日撮影

追記:平林氏が大阪マンデーベースボールリーグに参加される前の草野球リーグで記録された
1997年までの「ロビンズ」での資料が手元にございますので抜粋して記載いたします

ロビンズ 1994年順位不明 1995年4位 1996年3位 1997年8位

1994年〜1997年・在籍期間4年間の投手成績と打撃成績(1994年は不明のため3年間)

「投手成績」

・1994年 不明

・1995年 4勝6敗

・1996年 2勝2敗

・1997年 1勝11敗

1995年〜1997年通算 7勝19敗 勝率.269

「打撃成績」

・1994年 不明

・1995年 45打席42打数8安打(打率.190)※規定打席到達

・1996年 30打席27打数5安打(打率.185)※規定打席到達

・1997年 48打席39打数4安打(打率.103)※規定打席到達

1995年〜1997年通算 123打席 108打数 17安打 打率1割5分7厘

合掌

2012.2.3作成